寺の歴史
正蓮寺の歴史
-讃岐の地と浄土真宗とのつながり-
讃岐の地に浄土教系の念仏が広まるきっかけとなる出来事が13世紀の初めにおきました。
それは京において法然上人(源空 1133~1212)が専修念仏の教えを説き、多くの人々がその教えに共鳴し、念仏をよろこび、法然上人のもとに集まるようになりました。そのことに危機をつのらせた旧仏教(南都北嶺)側が、朝廷を動かし、法然上人とその弟子達(親鸞聖人など)に迫害を加える事件がおきました(1207)。この出来事によって、法然上人は流罪となり土佐へおくられることになりましたが、この法然上人の教えに深く帰依していた関白の九条兼実は、高齢の法然上人を遠国土佐に流すことを忍び、自の所領である讃岐小松荘(まんのう町羽間)生福寺(浄土宗西念寺)に滞留させました。
これによって、法然上人は1211年11月に赦免になり帰洛の途につくまで、この讃岐の地で布教活動を行ったのでした。これが後に、親鸞聖人を宗祖と仰ぐ一向宗(浄土真宗)が讃岐の地に広まる素地となったのではないかと思われます。
-興正寺(仏光寺)第7世 了源上人と讃岐の一向宗(浄土真宗)寺院-
興正寺(仏光寺)第7世 了源上人(1295~1336)は民衆への布教活動(教化)に力をそそぎ、近畿・山陽へ教線を伸ばし、京都山科にあった興正寺を東山渋谷に移転し仏光寺と称しました。この了源上人の教えに共感し出家した者の中に、和泉国大鳥城主生駒右京大夫の子、兄 秀善と弟 浄泉の兄弟がいました。この兄弟は四国に渡り、兄は阿波国(徳島県)に安楽寺を、弟は讃岐国(香川県)に常光寺(創建 応安年中1368~1374)を開創しました。常光寺の開創が、讃岐の興正寺系の浄土真宗寺院のはじまりであります。
讃岐国阿野郡(現在の綾川町、高松市国分寺町、坂出市辺り)においては、阿野郡南の善福寺が応永年間(1394~1427)の創建と伝えられています。さらに教線が北へ伸び、阿野郡北鴨村に当正蓮寺(永正年間1504~1520)が創建されました。
なお、讃岐の地に一向宗(浄土真宗)の寺院が続々と誕生していくことになるのは、本願寺蓮如上人(第8世 1415~1499)、実如上人(第9世 1458~1525)から顕如上人(第11世 1543~1592)の時代にかけてでありました。
-正蓮寺創建の発端と開基住職 綾常清-
正蓮寺に残る古文書「正蓮寺記」によると、当院の創建は永正2年(1505年)とされています。初代開基住職の名は綾常清といい、永正2年に上洛、親鸞聖人の骨肉の御真影を拝謁して感激し、本願寺第9世 実如上人に面会を申し出たところ、上人はその願いを聞き入れ、お会いくださった。そのとき上人は常清に「帰国して真宗を諸人に教えるため寺院を建立せよ」と、前住 蓮如上人の筆となる六字の御名号(南無阿弥陀仏)をくださったと記されています。
また、開基住職である綾常清について、「正蓮寺記」には「崇徳上皇当国に左遷の御時度々鳳輦(ほうれん)をとどめ、丸の内に一もと菊の御紋まで給わりし在庁野太夫高遠が裔」とあります。1156年の保元の乱で敗れ、讃岐国に配流になった崇徳上皇を松山の津(現在の坂出市高屋町)に迎え、雲井の館(配流された当初はお住まいが整備されてなく、国府の役人であった綾高遠の私邸を修繕し御所として利用された 坂出市林田町)でお世話申し上げたことにより、上皇より「一本菊」の家紋を賜ったという伝承です。当院の本堂正面の唐戸にある彫刻の紋章となっています。常清が綾高遠の末裔であることの証をうかがわせるものであります。
-正蓮寺本堂の建立と阿野郡北鴨村-
当院本堂の建立年を明確に示す資料は残っておりませんが、「正蓮寺記」には「常清急ぎ故郷に帰り、諸旦那の助力を乞求めて仏閣を造立、仏法繁昌の地と成る」とあることから、常清が存命中に本堂・仏閣が建立されたと思われます。常清は寺の過去帳によると天文3年(1534)2月1日往生となっていますので、永正2年(1505)から天文3年(1534)までの間に本堂・仏閣の建立、整備がおこなわれたと考えられます。建立時の本堂は、当院第8世 正貞の時代(元禄年間 1688-1702)に建て替えられましたが、その本堂も100年余りで白蟻被害と暴風雨の影響によって損傷が激しくなり、当院第16世 普音の代に再建され現在に至ります。その現本堂(七間四方総欅作り)は、文政2年(1819)に着工、文政8年(1825)に棟上げを行ったと記録されており、約200年前のものとなります。
当院は坂出市加茂町鴨庄にありますが、創建当時から今と変わらず同じ場所にあります。明治までの地名は阿野郡北鴨村、明治時代に阿野郡と鵜足郡が合併して綾歌郡、鴨村と氏部村が合併して加茂村となり(綾歌郡加茂村)、第二次世界大戦後坂出市と合併して坂出市加茂町となりましたが、寺の所在置は変動しておりません。
開基住職の常清が、なぜ阿野郡北鴨村に正蓮寺を創建したか、これには2つことが関係していると思われます。
ひとつは、阿野郡北の地が古代綾氏の居住した地であったということ。綾川の恵みによって早くから開けた地であり、古代綾氏の流れを汲む綾高遠一族とその後裔達が居住し、開基住職である常清も、もともとこの地に住んでいたと思われます。
もう一つは、崇徳上皇の白峰御陵を北東に仰ぐ地が、阿野郡北鴨村の地であったということ。建立する寺の鬼門を崇徳上皇の御陵に護っていただくという願いが、阿野郡北鴨村を選ばせたのではないかと考えられます。正蓮寺の山号は、綾坤山(りょうこんざん)といいます。綾は阿野郡のあや、綾氏の綾を、坤(こん)は①土地をあらわし大地、②方角をあらわしては鬼門とされる「北東」を指します。つまり、綾坤山に込められたものは、古代以来の綾一族の居住地に、崇徳上皇の御陵を北東(坤の方角)に仰ぐ寺という意味からではないかと思われます。
年表
寺の主な
出来事
本山及び
世間の動き
室町
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1505年永正2年
綾常清(開基住職)上洛し
本願寺第9世実如上人より寺院建立の命を受ける
堂宇の建立(本堂は開基住職が建立か) -
1511年
親鸞聖人250回忌
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1534年天文3年
開基住職 常清 没
安土桃山
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1578年天文6年
長宗我部元親 綾北に侵入
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1562年
親鸞聖人300回忌
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1600年
関ヶ原の戦い
江戸
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1617年元和3年
正蓮寺 第5世 祐玄継職
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1624年寛永元年
正蓮寺 経蔵の傅太士像台座に寛永元年の記録あり
(この時代に経蔵が建立されていたと思われる) -
1661年
親鸞聖人400回忌
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1671年
江戸幕府
宗門人別帳の作成を命ず -
1680年延宝8年
正蓮寺 第8世 正貞継職
このころに本堂・山門を再建 -
1708年宝永5年
梵鐘鋳造
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1711年
親鸞聖人450回忌
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1761年
親鸞聖人500回忌
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1771年明和8年
正蓮寺 第14世 忍成継職
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1804年享和4年
藁葺玄関大破 瓦葺とす
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1811年文化11年
正蓮寺 第16世 普音継職
親鸞聖人550回忌
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1818年文政元年
本堂再建 願い出
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1819年文政2年
本堂再建工事 3月10日肇斧
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1825年文政8年
本堂再建工事 2月5日上棟
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1827年文政10年
正蓮寺 第17世 準照継職
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1845年弘化2年
大玄関・小玄関再建
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1847年弘化4年
庫裏再建
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1849年嘉永2年
鐘楼再建 願い出
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1859年安政6年
親鸞聖人600回遠忌法要執行
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1861年
親鸞聖人600回忌
明治
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1868年
明治維新
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1876年
西本願寺より興正寺別派独立
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1879年明治12年
経蔵再建
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1902年
本山興正寺火災により堂宇焼失
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1907年明治40年
正蓮寺 第19世 純照継職
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1910年明治43年
鐘楼再建 手水屋建立
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1911年
親鸞聖人650回忌
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1912年明治45
親鸞聖人650回遠忌法要執行
大正
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1913年大正2年
土蔵再建上棟式
昭和
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1929年昭和4年
正蓮寺 第20世 浩然継職
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1931年
満州事変勃発
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1941年
太平洋戦争勃発
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1942年昭和17
戦争激化による金属供出要求があり梵鐘を供出
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1945年
終戦
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1946年昭和21年
梵鐘鋳造
南海地震発生
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1955年昭和30年
正蓮寺 第21世 俊照継職
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1961年
親鸞聖人700回忌
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1964年
東京オリンピック
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1968年昭和43年
親鸞聖人700回遠忌法要延修
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1986年昭和61年
本堂・山門・鐘楼・経蔵屋根瓦葺き替え
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1987年昭和62年
書院再建本堂等修復・書院新築円成法要
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1988年
瀬戸大橋開通
平成
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1991年平成3年
正蓮寺 第22世 宣雄継職
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1992年平成4年
長屋門再建・木納屋解体駐車場整備
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1993年平成5年
第22世継職法要執行
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1994年
関西空港開港
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1995年
阪神淡路大震災発生
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2001年
興正寺第31世伝灯奉告法要
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2003年平成15年
本堂広縁・階段修復・高欄設置工事
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2005年平成17年
開基500年慶讃法要執行
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2006年平成18年
納骨堂新築
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2011年
興親鸞聖人750回忌
東日本大震災発生 -
2012年平成24年
庫裏改修・駐車場拡張
親鸞聖人750回遠忌法要執行 -
2016年平成28年
本堂等の改修・耐震工事、仏具お煤抜き
山内整備(~2018) -
2018年平成30年
正蓮寺 第23世 浄慎継職 第23世継職法要執行
本堂・山門等が国の登録有形文化財に答申される
令和
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2020年
コロナ大流行
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2021年
東京オリンピック
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2023年令和5年
第23世住職 浄慎急逝
第22世宣雄 急遽再登板(第24世)